仏教で人間を超えていくための話
何もない真空からなぜこの宇宙が生まれたのか?
138億年前に、時間も空間もない無の状態から、ビッグバンが起こり、わたしたちの宇宙が生成され、銀河が生まれ、地球が生まれ、そこに私たちが住んでいる
そこで、「なぜこの宇宙が生まれたのか」について考えている
五感を持った普通の人間はそのように考える。
光を粒として捉え、その速さを超えるものがあるとかないとか
あるいは、重力とは空間の歪みで、地球の質量で空間が歪んでいるとか、
このようなさまざまな法則を見つけ出した。
その前提となるのは、なぜ何もない真空(無)からこの宇宙が生まれたのか、という疑問が存在しているということだ
つまり、無の方が先にあって、その次にこの空間が生まれたという発想で人間はものを考える
しかし、真理は逆である
何もない無から宇宙が生まれたのではなく、
この世界が生まれた後に、この無の方が
自我を消滅させることによって無が生まれたのである
この空間の方が、無の過去であるということである
ここはよく考えてほしい、とても大切なことだから
何度も言う
この形になる世界、時間と空間の世界に生きている住人・生命体が自我を消滅させることによって無が生まれた
無は自分が無であることを思い出すために思考を作り出し、それによってビッグバンが起きて形のある世界を作り出した
ところが、この世界の住人のほとんどは自分が無の過去世であるということなど忘れて、
無が生まれなくなってしまっている。
これが現代の状況である(末法)
例えばこういうことである
あなたは新しい街に引っ越してきたとしよう
新しい家から、駅まで歩いて行くことにしたとしよう
そしてあっという間に駅に着いたとしよう
そしてあなたはどうやって駅まで着いたかの道のりを思い出したとしよう
まず、信号を渡って、コンビニを渡って、スーパーの前を通って商店街を通って、駅に着いた
あなたは、これを思い出して、思考を作り出し、「あ、そうか自分はこうやって駅に着いたんだな」と満足するのである
ところが、あなたが仮に、コンビニからスーパーに行く途中に、素敵な女性がいて、そちらに行って駅に行かなくなってしまった
あるいは途中にパチンコ屋に寄ったり、宝くじを買ってしまったり、友人の家に行ってしまい、なかなか駅に着けない
これでは、いつまでたっても駅につけない状態である
これが現代人のほとんどが陥っている状態である
要するに無は自分を思い出そうとして、思考を発した
その中に宇宙を作り、時間と空間を作り、そこに生命を作った
そして、その生命体は、無に戻らなければいけないにもかかわらず、そんなことも忘れ、
集落を作って稲作を始めて食べ物のことばかりを考えたり、
貨幣を作って、商品を買って独占したり、
軍事力を作って他の村を焼き払ったり、
奴隷を作ったり
そんなことばかりを始めてしまったせいで無に戻れない
しかし、こんな世界でも道案内人というものがいるのである
それが如来という存在である。
如来は、駅に着くことを忘れてしまった、目的を忘れてしまった人々に、本来の目的を思い出させることができる唯一の存在である
如来は、そのために、あなたがビッグバンを起こすあらゆる世界に教えを残してあって、あなたがその世界にいくと、その教えに反応できるようになっている
無が自分が何かであるかを悟ってしまうと、最初から何も生じてもいないし滅してもいないことに気がつく
初めから無であったということになる
初めから悟っている状態があるだけなのである
実は無は何も考えてないし、
過去も作っていなければ、
ずっとそのままなのである
なぜならこの思考というものは存在もしていなければ何もないからである
これが如来の悟りであり、どんな世界に行っても変わらない真理であり、
法華経のサトリなのである
この記事を読んであなたが反応したのであれば、
あなたも過去に如来のもとで修行をした菩薩である
自分が無であることを忘れてしまった人々に教えてあげてほしい
それが本当の喜びであり、あなたが存在している理由だから
あなたも無を作りだす無限の広がりの中の一部であり、如来さながらの存在なのだから