ありのままにこの世界を見るとは?
ありのままに見るとはどういうことか。
法華経にはこう書いてある。
これはどういうことか。
これは空の考え方がわからないと理解できない。
そして解脱しているものには、すんなりと飲み込むことのできる素晴らしい表現だ。
全ての形になるものは仮想映像であり、存在の本質が方便で創り出した便宜上の世界なのである。
例えば、点滅している電光掲示板の例えをしよう。
背景が黒色の電光掲示板に黒い複数の電球が配置されている。
つまり、点灯していない電球は肉眼では確認できないとしよう。
そして、この複数の電球のうちいくつかの連なった電球が左から順に点灯していくとしよう。
すると人には左から右に玉が移動したように見えるだろう。
しかし、実際には玉が移動しているわけではなく、複数の電球がタイミング違いに点滅しているだけである。この時、点灯していない電球は、人には認知されないため、ないものだと錯覚するだろう。この世界にいる人たちのものの見方はまさにこのようである。
あるいは、複数の電球が点灯している場合、点灯していない電球は目で見ることができないが、次の異なるタイミングでは点灯するかもしれない。
この時、点灯していない電球はあると言えるかないと言えるか。
人間は、生きている以上、いずれ死ぬ。
あなたが生まれてる前も死んだ後もこの世界はある。あなたを知っている人も同様である。
ということはここにいるとも言えるし、いないとも言えるだろう。
それは単に時間差があるだけで時間という概念が自分の肉体が永遠に続くかのような錯覚を作っている。
時空すらも重力によって伸び縮みする非常に曖昧なものであるという錯覚であるのに。
この三次元の世界に変化しないものはない。
ただ1つ変わらないものは精神だけである。
存在の本性ただ1つだけである。
あとは全て相対的なものであり、曖昧である。
絶対的なものは今という瞬間だけであり、あとは全て過去か未来か現在である。
過去も未来も現在も、1つだけでは成立し得ないが、
存在の本質はただ1つ自己存在者としてそこにあるのである。
以上、ありのままに観るという法話を終える。