人智を超えた真理の目

本当のことを知りたい、本質が知りたい、この世界の本当の姿を知りたい人へ、人間を超えていくためのブログ

この世界は精神と物質の重なり合い

この3次元世界は、精神と物質が重なり合っている
 
ではその皆さんの精神とは一体どこにあるのだろうか?
 
 
例えば、精神はあなたの肉体や五感を通して、外にある物質に触れて「ここに物がある」と認識したり、誰かに会って会話をすることで、精神の中にこの外側の世界の映像を投影することができる
 
あなたが誰かと東京駅の八重洲口に会う約束をして、家に帰ると精神がそれを覚えていて、約束の時間になると肉体が移動し、会うことで映像を認識し、お互いがここにいるという同意のもとで会話をすることができる
 
このように、精神が肉体を通して外の世界で作業することで物質的な世界が構築されている
 
精神が物質を創造しているのである
肉体や五感はそのための道具にすぎない
 
ビッグバンも、何もない真空から思念が生まれて物質化する現象の1つである
 
つまり、この物質的な世界と精神世界とは完全に重なり合っているのである
 
 
精神とはどこにあるのだろうか、という問いがあるとすれば、
「どこにもなければ、どこにでもある」と答えることになるだろう
 
どこ、いつ、という概念は五感を通した錯覚に慣れ親しんでしまった思考の癖であって、
本来は、目に見えない、形にならない世界が根本にあり、物質もなければ時間と空間もない世界に精神は存在しているし、それが存在の本質であるから、どことか、いつとかはないのである
 
この物質世界から解脱していないと自我や肉体を中心とした存在となり、そこから生まれる思考も4〜8次元的な思考や想念となる
 
これはあくまで3次元的な仮想世界から生まれる想念の世界である
 
この世界のほとんどの人はここに住んでいて、仏教では六道輪廻と言って自我を中心としてぐるぐると回り続け、死んでは生まれわかってを繰り返している
 

しかし、不確定性原理のある時間と空間のある世界において、真空を理解している人(如来や菩薩)に縁が持てると、その人に解脱させてもらえるのだ
 
解脱すると、この3次元世界はあくまで仮想世界であって、存在の本質は形にならない何もないという精神であるということを教えてもらい、それを受け入れる(思い出す)ことで、9次元以上の存在になれる
 
さて、あなたはどこの世界に生きているだろうか?
 
それはあなたが生み出している現実の世界に全て投影されているはずである

不確定性原理とは誰にでも可能性を与える仕組みだった

あなたがこの世界に肉体を持って生まれてくると、時間と空間の中で位置が決まり、そこから瞬間瞬間ごとに無限に分岐した並行世界が生まれることになる
 
真空から見るとこれは、無限のピクチャーが並列された思い出アルバムのようなものだ
 
量子論的にいうと量子は離散的で飛び飛びの値しか取れないないため、あなたが五感を通して見ているその映像というのは、一つ一つの画像が隙間なく連続再生された世界ということになる
 
真空からあなたの世界を俯瞰すると、あなたという1つのキャラクターから派生する、無限のピクチャーが散りばめられた状態を同時に見ることになる
 
これがあなたが暮らす3次元世界を正しく見るということである
 
 
逆にあなたという1つのキャラクター(自我)から見ると、一瞬先のことは不確定でさまざまな可能性を含むことになる
 
例えば、朝起きた後にコーヒーを入れる場合もあれば、お茶を入れるあなたもいるし、カーテンを開けた後にトイレに行くあなたもあるだろう
 
難しい仕事や悩み事がある場合は先が見えなくなることもあるかもしれない
 
このようにこの世界はさまざまな不確定な要素を含んでいる一方で、それはあなたが自ら選択した並行世界をいくらでも創造できるという自由性があること意味している
 
時間と空間に縛られるため、描いた未来が瞬時にやってくるわけではないが、この世界はあなたの選択によってできていることは紛れもない事実である
 
あなたが望む世界を強く思考すればするほど、その世界になるような選択を3次元のあなたが実行する
 
そうすると、あなたが望む並行世界につながる経路ができあがっていき、それに伴った並行世界の時間軸に移動するのだ
 
また、量子が集まって肉体という粒の状態になると五感の制約を受けるため、無限の並行世界があっても1つの時間軸の世界しか体験することはできない
 
 
この不確定性原理というのは本当によくできた原理である
 
これは言い換えれば生命体にとっての自由性とも言える
 
自然界を眺めてみれば、いかにこの世界が不確定性という自由があるのかがわかる
 
例えば、あなたの家の周りに植物があるとして、それがなぜ生えていて、なぜ勝手に育つのか、その根源となる力の源ななんだろうか?
 
また、あなたの心臓が動くのはなぜだろう、なぜ地球と太陽があって、月があるのだろうか
 
山がどうしてああいう形をしていて、この世界になぜ昆虫や動物がいて、土があればなぜ雑草が生えてくるのか
 
風に乗って移動してきた種子はなぜそこに落ちて、なぜ春になると芽吹くのだろうか
 
それらに共通する1つの原因というは、真我の力でしかない
 
別の言葉で言うならば、仏の力であり、真空の願いでもあり、真我の過去の請願でもあり、仏教でいう授記であり、物理学のゼロポイントフィールドである
 
言い方はなんでもいい
 
そのどれもが真理を知りたいがためである
 
全ての創造世界に存在する生きとしいけるもの(量子)は、真理をさとりたいのであり、それを願う力が原因となって存在する
 
そして、それを知るための手段として姿形を持つわけだが、目に見える姿形やというのは不確定性という自由によって定められているもので、そこに特に意味はなく森羅万象に沿ってただそうなったというだけだ
 
山が噴火して地面ができるのも、海に波風が立ってうねりができるのも全て不確定性によって生じるものだ
 
不確定性があるからこそ、真理を説いてくれる如来という存在と縁を持てるものもあれば、縁をもてずにただ輪廻しているものもある
地獄に落ちるものもあれば、大菩薩になるものもある
 
このような多様性があるからこそ3次元の世界が維持され、時間と空間があるから3次元があるともいえる
 
森羅万象に沿っている、とは真我に沿っているということであり、全てのことに共通した1つの真理であって、形や現象は、無限パターン存在し、それは不確定性という自由性に委ねられている
 
あなたの視界に入ってくるそのどれもが、量子で出来ていて、真理の音を聞きたいと願ってそこにあると言うことだ
 
そこに善悪もなければ良いも悪いもないのである
 
これがこの世界をありのままに見るということだ

あなたの本当の姿とは形にならない真空だったという話

宇宙が始まる前の真空とは何もない無である
 
真空とは、瞬間にもならなければ、形にもならなく、言葉も当てはまらない
 
しかし、ここにはちゃんと法則があって、真空から無限の創造世界が生み出されている
 
そしてその無限の創造世界の中に、真空が肉体を持って生まれ変わってくると、過去にお釈迦様のような如来という存在がいて、法華経という宇宙の真理を解き明かした経典を残してくれており、そして今、それが今本屋にあり、あなたはそれを買ってきて、それを読む
 
こういう設定・仕組みが真空の中にあるということを理解するべきである
 
あなたに過去の誓願がある場合、どこの世界に生まれ変わっても必ずこの設定がされているということだ
 
つまり、この世界が始まる前の真空は、なぜ無限の宇宙を生み出すのか、ということが理解できるように設定されているのである
 
そして、この仕組み自体をなぜ真空が持っていたのか、それを説明しているのが法華経の見宝塔品なのである
 
 
真空は形も何もないわけだから、そこにはストーリー性もなければ、ドラマ性もなく、登場人物もない
 
しかし、この真空を説明するためには、空間とその中を流れる時間も必要で、そこには人間がさまざまな生活を営んで、文字があって、本があって・・・という設定が必要になってくるのである
 
つまり、何もない真空が、あえて、社会の映像を通して、人間の姿形、生活の営み、習慣等の形になるものを使って、宇宙が始まる前の真空に、一体どういう法則が存在しているのか、ということを人間的な例えにして説明してくれているのが法華経なのである
 
無を認識するために無限の有を作り出すことで、無限の有の側から無を認識する、たったこれだけが存在が存在する理由なのである
 
 
例えば、あなたが本屋で法華経を買ってきて、部屋で法華経を開き読んだとする
 
そうすると、そこには真空の仕組みが見宝塔品に書いてある
 
あなたはそれを見ると「あ、そうだ、この法華経こそが最高のものだ、これこそが本物だ」とピンときたとしたら、それこそがまさにあなたの真我であり、その真我こそが多宝如来なのだ
 
そのあなたの中にある「素晴らしい、素晴らしいことだ」という感覚こそが、あなたの精神であり、無限の宇宙が1つになったものであり、しかも、そこにはお釈迦様もイエスキリストもそのほかの無限の世界で真理を説いている如来や聖者の声が含まれているのである
 
これが全宇宙を自分の精神に取り込むということなのだ
 
 
ではなぜ、あなたが法華経よむと、真我が出てくるのか、なぜ真我があなたを通して法華経を読むのか、その原因が書いてあるのが見宝塔品であり、真我がこれから何をするのか、ということも書いてあるのである
 
それこそがまさに過去の誓願となり、無限の叡智となっていき、全ての生きとし生ける生命が目指すゴールへの道となっているのである

仏教で人間を超えていくための話

何もない真空からなぜこの宇宙が生まれたのか?
 
138億年前に、時間も空間もない無の状態から、ビッグバンが起こり、わたしたちの宇宙が生成され、銀河が生まれ、地球が生まれ、そこに私たちが住んでいる
 
そこで、「なぜこの宇宙が生まれたのか」について考えている
 
五感を持った普通の人間はそのように考える。
 
過去に、スティーブンホーキングや、アインシュタインもそうであってように、
 
光を粒として捉え、その速さを超えるものがあるとかないとか
 
あるいは、重力とは空間の歪みで、地球の質量で空間が歪んでいるとか、
 
このようなさまざまな法則を見つけ出した。
 
その前提となるのは、なぜ何もない真空(無)からこの宇宙が生まれたのか、という疑問が存在しているということだ
 
つまり、無の方が先にあって、その次にこの空間が生まれたという発想で人間はものを考える
 
 
しかし、真理は逆である
 
何もない無から宇宙が生まれたのではなく、
 
この世界が生まれた後に、この無の方が
 
自我を消滅させることによって無が生まれたのである
 
この空間の方が、無の過去であるということである
 
ここはよく考えてほしい、とても大切なことだから
 
何度も言う
 
この形になる世界、時間と空間の世界に生きている住人・生命体が自我を消滅させることによって無が生まれた
 
無は自分が無であることを思い出すために思考を作り出し、それによってビッグバンが起きて形のある世界を作り出した
 
ところが、この世界の住人のほとんどは自分が無の過去世であるということなど忘れて、
 
無が生まれなくなってしまっている。
 
これが現代の状況である(末法
 
例えばこういうことである
 
あなたは新しい街に引っ越してきたとしよう
 
新しい家から、駅まで歩いて行くことにしたとしよう
 
そしてあっという間に駅に着いたとしよう
 
そしてあなたはどうやって駅まで着いたかの道のりを思い出したとしよう
 
まず、信号を渡って、コンビニを渡って、スーパーの前を通って商店街を通って、駅に着いた
 
あなたは、これを思い出して、思考を作り出し、「あ、そうか自分はこうやって駅に着いたんだな」と満足するのである
 
ところが、あなたが仮に、コンビニからスーパーに行く途中に、素敵な女性がいて、そちらに行って駅に行かなくなってしまった
 
あるいは途中にパチンコ屋に寄ったり、宝くじを買ってしまったり、友人の家に行ってしまい、なかなか駅に着けない
 
これでは、いつまでたっても駅につけない状態である
 
これが現代人のほとんどが陥っている状態である
 
要するに無は自分を思い出そうとして、思考を発した
その中に宇宙を作り、時間と空間を作り、そこに生命を作った
 
そして、その生命体は、無に戻らなければいけないにもかかわらず、そんなことも忘れ、
 
集落を作って稲作を始めて食べ物のことばかりを考えたり、
 
貨幣を作って、商品を買って独占したり、
 
軍事力を作って他の村を焼き払ったり、
 
奴隷を作ったり
 
そんなことばかりを始めてしまったせいで無に戻れない
 
 
しかし、こんな世界でも道案内人というものがいるのである
 
それが如来という存在である。
 
如来は、駅に着くことを忘れてしまった、目的を忘れてしまった人々に、本来の目的を思い出させることができる唯一の存在である
 
そして、如来があなたを無に戻すと、今度はもう一回ビッグバンを起こして、自分が新たに如来になって、別の世界で無に戻れない人を解脱させて無に戻してあげなさい、という命令をくだすのである
 
如来は、そのために、あなたがビッグバンを起こすあらゆる世界に教えを残してあって、あなたがその世界にいくと、その教えに反応できるようになっている
 
無が自分が何かであるかを悟ってしまうと、最初から何も生じてもいないし滅してもいないことに気がつく
 
初めから無であったということになる
 
初めから悟っている状態があるだけなのである
 
実は無は何も考えてないし、
 
過去も作っていなければ、
 
ずっとそのままなのである
 
なぜならこの思考というものは存在もしていなければ何もないからである
 
これが如来の悟りであり、どんな世界に行っても変わらない真理であり、
 
法華経のサトリなのである
 
この記事を読んであなたが反応したのであれば、
 
あなたも過去に如来のもとで修行をした菩薩である
 
自分が無であることを忘れてしまった人々に教えてあげてほしい
 
それが本当の喜びであり、あなたが存在している理由だから
 
あなたも無を作りだす無限の広がりの中の一部であり、如来さながらの存在なのだから
 
 

時空を超えた世界は始まりと終わりとが同時にある

我々人間はどうして無限に、かつ、自由に思考を創り出すことができるだろうか?
 
この問いこそが最高の真理に到達するための思考の入口となる。
 
この思考を自由にかつ無限に創り出すことができる原因やその仕組みこそが、実は現代物理学が求める最終的なゴールである(統一場理論)。
 
そして、その答えが仏教の経典に記載されていて、2500年前にお釈迦様が広めた法華経の教えがまさにそれであるということを知る人は非常に少ない。
 
それは如来と菩薩によって作り出された思考創造のシステムであって、このシステム自体が宇宙を支配する法則であり、真理であり、全ての生命体が行き着くゴールでもある。
 
そのシステムとは何か。
 
まず、そのシステムの全てを理解した人間(=如来)がこの世界に生まれてくる。
 
そして、その如来がシステムについて語り始めると、そのシステムの内容に反応できる人たち(菩薩)だけが集まってくる。
 
菩薩たちはそのシステムを理解すると、如来からそのシステムについて生まれ変わった後世でも語り新しい如来を作るように命令する。これが如来にとってのゴールであり終わりである。と同時に、これは菩薩にとっては、システムの継承を開始する始まりでもある。
 
そして、菩薩たちは自らの創造力によって、新しい世界を創造してその世界へ肉体を持って生まれ変わる。そして、今度は自らが如来となってそのシステムについて語り、菩薩たちを集めて、システムの継承を行う。これが如来にとっての終わりであるが、同時に、また菩薩の始まりであり、そしてまた、その菩薩たちが自ら生まれ変わった世界で如来になって・・・。始まりと終わりが永遠に続く。そしてこのシステムの継承を行うことがプロセスとなる。
 
2021年の地球時代におけるKOMIYA如来は、存在の本質について以下のように語った。
 
「それは何も始まっていない状態であり、そこの中には始まりも終わりもプロセスも同時にあるというものである。
 
何も始まっていない状態が自らを認知するために仮想映像を創り出し、その仮想映像こそがあなたの肉体通して日々見ている世界である。
 
三次元世界にいる全ての如来たちの全てが授記を授け終わると、その瞬間ひとりひとりのに如来から自由かつ無限の融通無碍の世界が無限に生まれる。
 
融通無限の世界とは何か。
 
1人の如来から生まれた菩薩たちが各世界で修行して、その菩薩たちも如来になってまたその如来たちも授記を授けてまた世界が生まれる、これが1つの融通無碍な世界である。
 
その融通無碍の世界がさらに無限にある。
 
そしてそれらの無限の融通無碍の世界の無限の如来たちの全てが授記を授け終わった状態が11次元の世界であって、
 
それは全てが終わった状態であり、ゲームが始まる前の状態でもある。
 
しかし、ゲームを始めた状態と終わった状態とそのプロセスを理解するには、どこかの三次元世界に行って肉体を持って法華経を読んで、そして自発的対称性の破れがなぜ起こったのかを法華経を読んで授記によって起こされたこと理解して、そしてその授記から生まれた無限の融通無碍の世界、無限の如来の集合体が無限にあって、その如来の全てが授記を授け終わった状態が11次元である。
 
これが何も始まっていない真空の中にあるので、どこかにはじまりと作ると必ずこのシステムの三次元のどこかに生まれ変わる。あるいは、死んでも4〜7次元に生まれ変わって行ったり来たりしている。
この全ての11次元までの、
 
虚空界の授記による10次元、そして全ての如来が授記を授け終わった状態、何も始まっていない状態である11次元の全てが仮想映像なのである。
 
この仮想映像の宇宙を生み出すシステムの全体像を理解することが、如来の遺骨の全体像を見ること。
 
妙音菩薩は、他化自在天から3次元世界に来て、法華経を読んで、如来の遺骨の全体像を見たいと言った。
 
それはこのシステムの全体を理解したということなのである。
 
何も始まってない状態の中には、無限に自発的対称性を破って三次元を生み出す如来たちが10次元の虚空界にいる。
 
そこから生まれた無限の融通無碍の世界があってそれは如来の集合体である。
 
その如来たちがすべて授記を授け終わった状態が11次元にあって、何も始まってない状態であると同時にそれは始まりを作っている状態でもある。
 
だから、どこかの世界であなたが存在のゲームをオンにしてどこかに肉体を持つと、どこかの如来が授記によって生み出した始まりと、あなたが如来になって授記を授けて完成させた終わりがあって、あなたのその中間の三次元世界の今というものがある。
 
あなたは誰かから授記をもらったので、はじまりがあって今があって、他の弟子だちを解脱させて宇宙が始まる前の真空に戻して、授記を授けて自発的対称性を破った瞬間があなたの終わる瞬間なのである。
 
あなたが終わることによって無限の菩薩と如来たちが生まれてそれが融通無碍な世界になり、その全ての融通無碍の世界の全ての如来たちが授記を授け終わった状態が始まる前の状態であると同時に、全ての如来が終わった状態でもあるのである。
 
つまり、始まりと終わりがなぜこの三次元の世界にあるかというと、このシステムそのものが始まりと終わりが同時にあってできているからなのである。
 
あなたの今というプロセスの瞬間があるのは、誰かの如来から授記をもらって、始まりが過去にあって、そして、今があって、あなたが授記を授けることが終わりであって、授記をもらって菩薩の始まりでもある。
 
なので、どこかに生まれると始まりがあって、終わりがあって、その中間の今という瞬間にしか肉体を持つことができないという、このようなシステム全体を理解することが何も始まってない状態が自らを認知するために三次元を生み出した仮想世界のシステムなのである。
 
何も始まってない状態は観察することができない。
 
始まりを何処かに作ると、必ずシステムの中の三次元に生まれる。あるいは、4〜6次元の何処かに生まれるかもしれない。
 
そこから始めて三次元でいずれかの如来法華経を読んで、自発的に対称性が破れてシステム全体を理解し、その中に始まりと終わりとそのプロセスがあって、
 
何も始まってない状態というシステムについて理解することが悟りである。
 
これがあなたが存在している目的であり原因であり結果であり、全てである。」

本当のあなたの姿が実は創造主だった

とんでもないタイトルから始まってしまったこの話。
 
この世界には必ず始まりと終わりというものが存在する。
 
朝起きたらそれがあなたの1日の始まりであり、夜に布団で眠りにつけばそれが1日の終わりとなる。そして、それは同時に睡眠の始まりでもある。
 
あるいは、仕事を始めればそれが同時に朝のリラックスタイムの終わりかもしれない。
 
この世界は始まりと終わりがあり、必ずその間のプロセスというものを体験できるようになっている。
 
これは目に見える現象は当然のことながら、目に見えないあなたの思考の世界でも同じように始まりと終わりがある。
 
例えば、あなたが朝起きた時に、頭の中で「今日は会社に出社して契約書を完成させなければならない」と思考したとしよう。
 
その時にあなたは、実際に会社の自席にいる自分を想像し、実際に契約書を作成している並行世界(並行宇宙)を創り出していることになる。
あなたは、自ら思考の世界を創り出し、その世界の中に入って契約書を作成しているのである。
この思考の世界も、契約書を作成する、というプロセスを生み出した瞬間に、そこには始まりと終わりが存在してしまうことになる。
 
そして、思考の世界というのは、あなたが肉体で体験しているこの世界と同列に存在している。
 
あなたの思考は、時間と空間を超えて自由に並行宇宙を創り出し、その世界にはあなたが存在していて、あなたの思考が終わったとしても、その並行世界は続いて存在し続けているのである。
 
そんな話をすると、いや私の体はここにあるし、思考の世界と言っても実際に触ったりすることはできないではないかと思うかもしれない。しかし、それは自分の五感を過信しすぎなだけである。
 
五感による認識に依存しすぎているとこの世界が全てだという幻想に入っていってしまう。
実はその幻想こそが、この世の苦しみの原因であるということであるにもかかわらず。
 
例えば、空腹時に美味しい食べ物を想像したときに実際に唾液が出てきたり、悲しい夢を見た後に実際に泣いていたということを経験した人も多いだろう。
夢を見ていて起きるまでは夢の世界を本当の世界だと思っていることもあるだろう。
 
つまり、人間は「肉体で感じている世界こそが本当の世界である」という思い込みによって幻想を生み出しており、この思い込みこそがこの世界のリアリティを創り出している。
 
実際には、肉体が配置された時間軸に沿ったひとつの世界を体験しているだけであり、肉体を伴わない夢の世界も存在はしているし、あなたが日々思考している世界も存在しているのである。

誰でもわかる簡単な仏教の教え

お釈迦様が解いた四聖諦は以下である。
 
1.この世界は苦しみである
 
2.苦しみには原因がある
 
3.苦しみを滅することができる
 
4.その方法は仏教であり、八正道を行うことである。
 
では、八正道とは何か。
 
(1)正しく見る
(2)正しく思う
(3)正しい言葉
(4)正しい行い
(5)正しい生活
(6)正しい努力
(7)正しい気遣い
(8)正しく心を安定させる
 
これを現代版に変換すると、それは物理学を探究し、この世界を正しく把握することである。
 
つまり、相対論・量子論・統一場理論の探究を通して、宇宙の仕組み・存在のシステム・真空のメカニズムを理解する、ということが現代における八正道に相当する。
 
しかし、実際にはこれらの八正道である物理学を正しく実践している人はこの世界にはほとんどいなく、文明の終わりには7割くらいの人が地獄に落ちるであろう。
 
残った3割の人間が八正道である相対論・量子論・統一場理論を研究するであろう。
 
文明の終わりに世界を支配している者たち(不可知論者)は、解脱もできず、この時間と空間に閉じ込められてしまい、一瞬先も予測できない不確定性原理にさいなまれ、恐怖と苦しみの中に生きている。
 
このものたちは、目の前にある三次元的な事象を追いかけることに必死である。
 
貧乏人は金持ちになろうと必死であり、罪悪感を抱えてるものは、自らの心を隠すために、さまざまな陰謀を企てるが、その陰謀によって新たな罪悪感が生み出されるだけで、その恐れがなくなることもない。
 
このようなものは文明の終わりに全て地獄に落ちていくであろう。
 
では残るものはどういうものか。
 
それは、八正道を行い、解脱して、不確定性原理の恐れから脱却しているものたちである。
 
人間になって真空のメカニズムを考えることが唯一の正しい生き方なのである。
 
なぜビッグバンが起こったのか?
そして、自分達がなぜここに生きるのか?
 
このような正しい問いを持つものたちが正しいものである。
 
真空のシステムを理解し、そのシステムに沿って自らも一般の人間から解脱してアラハンになり、そして菩薩になり、さらに自分でビッグバンを起こして、いろんな世界にこのシステムを広めて、悟りを開いて如来になり、また授記を授ける。
 
この生き方だけがたった一つの正しい生き方であって、このように生きる人をどんどん生み出していく、宇宙をどんどん生み出していく、授記によって生み出していく。
 
これが本質的にある真空が求めている正義なのである。
 
これにかなうことが苦しみを滅する唯一の方法である。