真理に気づいた人の苦しみ
もしあなたが法華経に気がつき、学び、これから教えを広めようとしたとしよう。
すると、あなたの夫・妻・兄弟・親戚あるいは友人が、あなたは頭がおかしくなり変な宗教団体に加入したに違いないと思い、あなたの前に立ちはだかって必死であなたの行いを阻むかもしれない。
このような状況があなたの目の前に訪れたとき、あなたはどうするだろうか?
法華経という最高の経典に気付いたにもかかわらず、
過去の誓願があるにもかかわらず、教えの学びをやめてしまうだろうか?
あるいは、家族・親戚・知人との縁をたって、出家し、力づくで法華経の学びの道を突進するだろうか?
これに対する答えは1つということはなく、人それぞれだ。
法華経の序章の冒頭にこのようにある
法華経を正しく理解するには解脱する必要がある。
特に、見宝塔品や妙音菩薩品の内容はあまりに高次元で通常の人間では理解が難しい。
これは自我という肉体を中心とした世界に浸かっていることが原因となって、世界をありのままに観ることができないためである。
世界をありのままに観るには解脱が必要である。
法華経を理解するには、まず解脱した状態を目指すべきであり、それが菩薩の重要な修行の1つとなる
では解脱とはどのような状態なのか?
これはあなたが、今、どのような三千世界、どのような時代、どのようなキャラクター設定になっているかによって多少異なるだろう
しかし、少なくとも上述した法華経序品の内容から解釈すると、
「義務を果たしてなすべきことを為し終えて、自由な状態であること」
つまり、我々がいる世界でいうところの社会的な義務を果たし、仕事をきちんとこなし、経済的にも精神的にも自由となり、それなりに社会で成果をだすことで、周囲の人間からの信頼をある程度得ている状態といえる。
これは菩薩は社会に法華経という教えを広めることが仕事であることと強く関係している。
特に家族というのは強いカルマによる結びつきが強いといえるので、その強いカルマを立ち切れるくらいの信頼を勝ち取るしかない。
仏の力があなたを離さないほどの善根があれば言うことはない。
そして、同時に、見えないものを見る力、見えているものを見ないというような超感覚を養う必要がある。
法華経の冒頭にでてくる偉大な声聞たちも社会的な信用を得ていたに違いない。
菩薩の道というのはいばらの道であるが、決して暗い道ではなく、むしろそこには光明が照らされている。
あなたの信じる力が、この世界を明るく照らすのである。